ちいささ、という豊かさ 100年の台所の旅【第二部】
Entice customers to sign up for your mailing list with discounts or exclusive offers. Include an image for extra impact.
1958年・晴海高層アパート / ダイニングキッチンの誕生
お茶を、もう一杯。昔話のつづきです。
遠いドイツで生まれた思想が、今日は海を渡って、東京にたどり着きます。
西で生まれた、無駄のない台所の思想。
その橋を日本へ架けたのは、ひとりの建築家でした。前川國男。
ヨーロッパで学び、居間と台所がひとつになった暮らし方——ヴォーン・キュッヘ(Wohn Küche)——を、日本に持ち帰ります。
その考えを受け継いだのが、前川の事務所で学んだ浜口ミホ。日本で初めての、女性建築家です。
彼女は一九四九年の著作で、「台所は家の北側、暗くて寒い場所」という長年の常識に、静かに異を唱えました。台所を、家の中心へ。
西で生まれた思想が、東の住まいへ落ちていく。その手前まで、話は来ていました。
一九五八年、東京湾を望む埋立地に、一棟の高層アパートが建ちます。晴海高層アパート。設計は、前川國男。
このころの東京は、桁違いに成長していく時代でした。
二十三区に、七百万を超える人。一平方キロメートルに、一万人以上。
環境としての過密と、全国で二百七十万戸もの深刻な住宅不足。
広い台所を、持てるはずもない。だから台所は、食事の場所とひとつに束ねられます。
台所(キッチン)と食事室(ダイニング)で、ダイニングキッチン──DK。
その間取りの型は、公営住宅の標準設計として描かれた「51C型」にさかのぼります。
そのDKに据えられたのが、日本で初めての、プレス加工でつくられたステンレスの流し台でした。
職人たちが試作を重ね、大量生産にこぎつけた一枚。
清潔で、丈夫で、明るい。
それは、のちの日本の調理場を一変させる、美しい象徴として輝くステンレスキッチンのはじまりでした。
流し台、コンロ台、調理台。それぞれが独立し、並べられ、必要なら替えられる。
これは、いまの「セクショナルキッチン」や「コンパクトキッチン」と呼ばれるものの、まぎれもない源流です。
必要が、コンパクトを生んだ。晴海の台所は、そういう台所でした。
前回のリホツキーと、今回の浜口ミホ。ふたりには、思わぬ共通点があります。まだ女性の建築家がほとんどいなかった時代に、台所の無駄をなくすことで、女性を家事から解放しようとした人たちでした。西と東、遠く離れた場所で、同じ志を持っていたのです。
当時、台所は家の北側にあるのが当たり前でした。日当たりの悪い、囲われた作業場。食材を傷ませないための合理的な工夫でもあり、同時に、家事は女性のもの、という当時の暮らし方を、少なからず映していたのかもしれません。浜口ミホが一九四九年の著書で問うたのは、この「あたりまえ」の見直しでした。彼女はそれを、住まいの“封建性”と呼びました。
台所を、日の当たる家の中心へ。その一歩が、いまの私たちの暮らしにつながっています。
── 次回、第三部「これからの対話 ── “ちいささ”を、選び取る」へつづく。
参 考 文 献
・北川圭子・大垣直明「わが国におけるダイニング・キッチン成立過程に関する研究」日本建築学会計画系論文集 第576号, 2004, p.171–177.
・浜口ミホ『日本住宅の封建性』相模書房, 1949.
・キッチン・バス工業会(ステンレス流し台の普及/DKの成り立ち)/ UR都市機構(団地の歴史・住宅不足)
・国勢調査(総務省統計局)・国土地理院(人口・面積・人口密度)